結局、いろいろな「余計なこと」に絡み取られて一生が終わり掛けています。ううむ、60歳からでも、そこから逃れられたら幸せです。別の見方をすれば、この国は「余計なこと」が美徳とされていたり、「余計なこと」が仕事を生んでいたりするので、(セミ)リタイア後でなければ、そんなことはできないのかも知れません。

今回のエントリで私が言っている「余計なこと」というのは過度な「してあげる」ということなのです。本来、自分で出来ることなのに「気を利かせたサービス」や「おもてなし」が人間をどんどん「してもらって当たり前」にしてしまいます。

これ、大事なことは「してもらって当たり前」と思うことをすっぱり止めるということに他なりません。「してもらって当たり前」とは「してもらわなかったら不満を覚える」ということで、結局、これが人間の心に負の感情を生み出す様に思うのです。

飲食店で「水をもって来てくれない」「おしぼりが出ない」、欲しかったら言えばいいだけなんですよ。食料品屋さんでエコバックに「買ったものを入れてくれない」、自分で入れればいいんですよ、お金を払った時点でこちらの所有物なんだから。ガソリンスタンドで「窓ガラスを拭いてくれない」、自分の車なんだから自分でキレイにすればいいんですよ。

お店だけでなく、会社でも家庭でも、過度な「してあげる」「してもらう」が蔓延して、どんどん「当たり前」が高じていきます。感謝はどこかに行ってしまって、「不満」やら「怒り」やら「不公平感」やらが多発します。行為にせよ、心が泡立つことにせよ、時間のムダだったり、ダメージだったりします。「当たり前」さえなければいいのに。

先ずは、自分の中で「してもらって当たり前」のことなど無いものと考える。敢えて、してもらったことに「こんなの要らないよ」とは言う必要はありませんけれど。それから、とにかく「必要が望むこと」「自分でできること」は何でも自分でしてしまう。これをサッサとやってしまう。何とかこれを習慣化、私の標準にしてしまいたい訳です。

それから、それから、ここからが難しいところですが、相手に対して、その人ができることならば、こちらは何もしないをフツーとする、ということになります。サービス精神旺盛というか、これが習慣化している人(私だよ)からすると、すぐにはできないかも知れません。

なかなか仕事においてはできることではありませんので、先ずはできるところから始めます。けれど、これを止めない限り、「してもらって当たり前」という心を失くすこともできない様に思うのです。人が相手にすることは、相手にしてもらいたいことでもありますしね。

何でもドイツでは「自分でできることは自分でやる」「相手に余計なことをしない」ことが国民の気質となっているのだそうです。だから、お店の人は日本に比べてまったく愛想がないのだとか。必要なことだけをしてくれれば、その方が楽かな。日本では「お客さまへの応対」がお店の価値になっていて、どんどん余計な競争ばかりして、皆が疲弊した今に至っている様にも思えます。もう少し「静かな国」でいいのに。

それで、何で敢えてこんなことを考えるかと言えば、何にも代えがたい自分の時間を余計なことで「食い荒らさせたりしない」ためなのです。ただでさえ、加齢と共に感情のスイッチが入りやすくなっていくのですから。余計なことに気を配らない、余計なことに不満を覚えない、余計なことで悩んだり困ったりしない。きっとこれだけで3割方は時間を増やせるように思います。根拠はありませんけどね。

思えば、「笑顔 0円」とか「お客さまは神さまです」とか、スゴイ言葉ですよね。

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