きっと、どこかに「これだ」という考え方や言葉があるに違いないと、さもしい思いで本を読んだり、googleに調べてもらったりします。そして、毎度毎度、「何だか違うんだよなぁ」ということになってしまいます。当たり前です。自分で作ったもの以外に「ドンピシャな答え」なんてないのですから。
そうはいっても、その時に考えていたことを整理したりするのに「上手くはまる」ものが突如言葉の海から見つかることがあります。いわゆる「降りてきた」ということであり、神の啓示であり、脳内麻薬だったりする訳です。
こういったものは大体において長続きすることはなく、瞬間に揮発してしまうので、これを留めておくために「本に書き込み」をしたり、付箋を貼って後で読み返したり、テキストに打ち直したりします。最近は図書館で本を借りることが大半で、本に書き込みはできませんので、100円ショップで「透明で剝がしやすく幅が狭い」付箋を大量に買ってきては、これをペタペタとページの該当箇所に貼っていきます。これがWebサイトの場合はせっせとブックマークです。
僅かでもこういった体験が記憶に残っていると、騒々しくて、自由にならない日常の中で、こういったものが「ふるい」にかけられ、残ったものに新しい解釈がなされ、時間を掛けて「自分の中での答え」「納得」に変わっていきます。結局、生まれてからずっとこれ(学び)の繰り返しをしている訳です。
学生時代であったり、社会で何らかの活動に携わっていたりする場合、意識せずとも「学び」は続けられていきます。しかし、皮肉なもので、時間に余裕のある、というか暇な退職者ともなれば「日々を慰安が吹き荒れて」という名曲「祭りのあと」(吉田拓郎さん/岡本おさみさん)の歌詞の様になってしまいます。
その中に、これに飽きてしまい、「何かやってみるか」ということになる訳ですが、これに誰かを付き合わせる訳にはいきませんから、「独学」ということになります。まぁ、最近は中高年から再度大学に通う(学び直し)という人も多いそうですが。
2020年に出版された「独学大全」(読書猿さん)という本が今もベストセラーを継続中ということでみんな「このプロセス≒独学」が好きなんだなと思うのです。私も図書館で予約待ちをしているのですが、ウェイテイング・リストの上位にまだ10人以上がいるのです。いつになったら読めるやら。
独学のコツやら、上手いやり方なんてものは、本来「独学」の精神とは相容れないものだとも思いますが、お仲間のやり方を覗き見したい気持ちもあるのです。とかく「独学」とは疲れるものですからね。
孔子、ソクラテスに始まって、ヘミングウェイだって、最近では台湾のオードリー・タンさんもまた「独学者」なのだそうです。勇気付けられます。対象がデカ過ぎですけれど。
英国の作家であるオスカー・ワイルドさん(1854年~1900年)の名言が気に入っています。「老人の悲劇は、彼が老いたからではなく、彼がまだ若いところにある」アハハ、正にその通りです。そのエネルギーをこれから100歳までの長い時間に、贅沢に費やしますか。