母の日に買ってきたカーネーションの鉢植えですが、いよいよ花がすべて枯れてしまいました。カーネーションは多年草なので、手入れさえきちんとできれば、来年も花を咲かすことができます。

冬場は家の中に入れることが必要ですが、カーネーションには毒性があって、愛猫がかじると最悪命にも関わるので、さて、どうしたものでしょう。鉢を入れる透明のケースでも用意しましょうかね。まぁ、冬のことは冬に考えます。

当たり前のことですが、人は自分を生きていくものなので、世間がどうで、他人がどうで、平均がどうで、などといったものは本来、まったく関係がない事柄です。けれど、人間社会の多くでは、「競争」があって、これに勝ち抜くことが正しいという価値観が、子供の頃からずっと人々に植え付けられ続けます。学校然り、会社然り、地域社会然り。

結局はこれが原動力になって、曲がりなりにも暮らしが維持されていくのですから、「はじめに競争ありき」の価値観が悪とは言い切れません。けれど、どこかのタイミングで「そこから降りたいな」と思う気持ちがやってきます。生涯「競争しています」なんて人もいるでしょうけれど。

そのタイミングは人それぞれで、若かろうが老いていようが、お金持ちだろうが貧乏だろうが、そのときの状況とは無関係に突然に空から降ってきます。そう思った日が「そのとき」ということになります。

そうなったら、それの即した新しい価値観に徐々に移行していくだけなのですが、どうにもみんな「降りる」ためには大変な準備が必要と考えてしまいます。翻っては「降りるための競争」に邁進してしまう始末です。

よく「FIREするためには1億円必要」とか言うじゃないですか。でもね、競争から離脱した生き方をすることと、「働かずに暮らす」ことは同じではないですよね。「私は一切の競争から離脱しています」という価値観の下、普段の生活を読み直してみると、それなりに望んだ生き方ができる様な気がしています。

現役を終えて「老後」の世界に足を踏み入れると、いきなり強制されたように「競争から降りた自分」を生きようとしたり、逆に「競争をしている自分」を続けていたりして、最初はみんな苦しむんですよ。その中に、そのときの自分にしっくりくる価値観が分かるので、それに従えばいいんですけどね。

それで、私は「競争から降りた」日々を送っているつもりなのですが、時折というか、しょっちゅうその平穏な時間がかき乱されてしまいます。何かの統計データを目にしたりとか、うまくやっている人たちの姿を目にしたりとか。

けれど、私を落ち着かせなくする本当の原因は「忙しい」ことにあるのです。(心に)代償を求めなければならない程に忙しかったり、ストレスを抱えていると「余計なもの」が頭の中に渦巻いてきて、他者と比べることを始めてしまうのです。

何もしない静かな時間が十分にあるからこそ、「競争から降りた」日々を心置きなく過ごせる。当たり前ですけど、そんなことを考えました。それも、効率的にいろんなことを片付けて「何もしない静かな時間を作る」といったことじゃなくて、ただゴロっとそういう時間があるということが大事なんだと思うんですがね。ただ、ぐうたらしたいだけダロ。

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いずれ、「週休3日」なんて時代がやってくるのかも知れません。海外で、給料変わらず+労働時間変わらずで、これを試行した結果、働く人のストレスが著しく低下し、仕事への満足度が上がったのだとか。

国内でも「週休3日」の議論がされますが、必ず「給料を下げる」か「勤務日の労働時間を増やす」という条件がセットになるのだそうです。こんなセコイこと考えちゃ、だめですよ。

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