勝手な解釈をあれこれ自分でしなくとも、年老いて生じる身体や考え方、心の変化にはきちんとした説明が付くことを知りました。生き物は何故「老いる」のか、それは「死にやすくするため」というのが答えだそうです。

これは今読んでいる「眠れなくなるほど面白い老化の話」(監修:野村義宏先生、総監修:長岡功先生)という本の冒頭部分に書かれている一節です。成程、そういう道理があるのだとすれば、老化が始まってから身の回りに起きることすべてが「それは自然なことなんだ」として納得がいくのです。

総じていえば、すべてが「少なく」「小さく」「遅く」なっていくことを嘆いたり、心配したりする必要はないのだな、と改めて安心?した訳です。最後の使命を果たすべく、順調に計画が進んでいるのですから。

表面的な変化だけを見ても、髪の毛は少なくなる、何故か毎年の健康診断で背が縮み続ける、一所懸命歩いているツモリがどんどん追い抜かされる。まぁ、病気やら体の痛いところは「増える」ことになりますが。

こういった表面的なものだけでなく、免疫力が低下するとか、脳自体が小さくなるといった老化も体の内部で着実に進んでいきます。そう、すべては「死にやすくする」ために。

最近、いろんなものに「無関心」でいること、というか「無関心でいられる」ことが多くなりました。他人に対して「誠実な関心を持つ」ことがよい人間関係を築くために必要とされていますが、近頃は特に「人」に対する関心が湧きません。

メディアなどを通じて知ることになる「見ず知らずの他人」については「へぇ」なんて感心をすることはあっても、職場や仕事を通じて知り合う人に対しては昔の様に「どんな人なんだろう」なんて思って、何かを訊ねたりすることが少なくなってしまいました。勿論、失礼なことが無いように「気を遣う」ことは怠らない様にはしているのですが。

けれど「誠実な関心を持つ」という思いが欠けている時点で、本当は「失礼」なのかも知れません。こんなことを「自分も随分と狷介で、愛想の悪いじいさん」になってきたなと少しばかり恥じていたのですが、どうやら、これも「死にやすく」するための準備の一環なのだと思うと随分と気が楽になります。

関心の範囲が小さくなり、程度も浅くなる。そうやって、自分の生活圏も自然と小さくなっていく。これは自然の摂理に適ったことだったんですね。当たり前か。そうしたいと思うならば、それでいいじゃん!という訳で、自分に無理のない様にすればいい。

人への関心が薄らぐということは、「自分を放っておいて下さい」ということの自然なメッセージなんでしょうね。象は死ぬときに群れから離れるとか、猫は死ぬときには人から隠れるとかいう話があって、私の「無関心」もそんな振る舞いの「長い助走」の一部なのかしらん? 変なフラグが立っていないか、少し心配です。


「新しく出会う人」への関心が薄らぐのとは反対に、最近は新しい料理メニュを増やすことに興味津々です。最新のお気に入りは、下ごしらえをしたカラ付きのエビに塩をまぶし、油もひかないフライパンでただ焼くだけのもの。時短料理ながら、美味しいですよ。

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