昨日(12/28)で仕事納めとなりました。10月半ばに働き始めた職場ですが、人も仕事も快適で、本当によい出会いができました。今年も残すところ僅か、後は大掃除を少し?やって、年越しそばを食べて、遠くで聞こえる除夜の鐘の音が聞こえたら、新年がやってきます。

どんなときでも、誰にでも、人と接すると何らかの「感情」を抱くことになります。場合によっては、銀行のATMや、街中の自販機に大しても怒ったりすることがあります。操作が分かり辛いとか、何回100円玉を入れても返却口に戻ってきてしまうとか。ふざけんなよ!とか、つい言ってしまいます。

時折、自分が相手の中に見ているものは「他ならぬ自分」なんだなと思うことがあります。相手の言動の中に「イヤだな」「腹が立つな」と思う部分があるとすれば、それが、自分だったら「そんなツモリ」でしているのだろうと邪推するからこそ、そう感じてしまうということです。

例えば、仕事でカンタンに思える作業を何度も「こうやってね」と念を押されると、『うるさいな、分かってるよ。この後、自分がチェックするときに手が掛るから、こういうことしつこく言うんだよな』なんて、相手の言葉に卑小な考えを見つけては「カチン」と来てしまう。

これ、この作業が実は重要な作業なので、全体のために、後々作業者が困ったことにならない様に、しっかり身に付くまで丁寧に教えてくれているのが真実だったりします。それを「自分が楽をしたいから言ってるんだよな」なんて思うのは、自分が普段にそんなことを考えているからに他なりません。そう、相手の中に見ているのは、実は自分の「醜さ」だったりするのです。

勿論、これは逆のこともあって、相手が何も考えていない、もしくは悪意らしきものがあってした言動に対して「ありがとう」「いろいろと気に掛けてくれてるんだな」と思うこともあります。これは一般的には「お人好し」と言われるものなのかも知れませんが、本人は幸せな気持ちになれたので、無問題です。

それで、相手の中に見出した自分の「醜さ」は、今となっては習性、それどころから「自分そのもの」だったりするので、恐らく何ともならないのです。もう、このまま、だましだまし一生付き合っていくしかない。無理に「更生しよう!」なんて思うと、自分の過去に押し潰されてしまいかねません。まぁ、反省はするとしても。

そうなると大事なことは、余計なことは考えないにつきると思うのです。相手の言動はただ「そのまま」に、へぇ~と受け止める。一昔前に流行った言葉で言えば「鈍感力」ということになります。いちいち相手の中に「醜い自分」を見つけていたら、疲れてしまいますからね。

とは言っても、まだ私には肝心の鈍感力が身についていないので、醜い自分を相手に見出すと、最近はそれを客観視して「そうか、オレって、普段こんなセコイことを考えてるんだな」と笑うようにしています。先ずはここからです。それにしても、セコイぞ、オレ。

*****
今年用に、昨年末はカレンダーを幾つか買ったのですが、結局、ほとんど見ることもなかったので、来年用には「貰ったら飾る」に再度の方向転換をしました。愛猫の動物病院からもらった「猫だらけ」カレンダー、会社のイベントで協力企業さんからもらった卓上カレンダー、それから生保の会社さんからもらった卓上カレンダー。これだけあれば十分です。

***
ブログランキングに参加しています。よろしければポチっとお願いします。やる気がでます。