どんな人格者も制御ができない怒りがあると私は思っています。それは「目下と思っているものに鼻を明かされたときの怒り」です。私はこれを平然と受け流した人を、かつて見たことも聞いたことがありません。どんな聖人、哲学者であっても。

これに関するよく知られた事例があります。中高年の方ならどなたでも記憶されているに違いありません。
それは2008年9月1日のことです。福田首相(当時)は首相官邸で緊急会見を行い、自らの辞任を表明しました。その会見の最後に(確か)地方紙の記者から「退陣会見がひとごとのように聞こえる」と指摘されると、福田首相は感情をコントロールすることもせず、「私は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたと違うんです」と言い放ったのです。 この会見に臨むにあたり 、福田首相は国益を守るために総理を辞任することを選択した無念さで胸がいっぱいだったのでしょう。(米国がリーマンショックの尻ぬぐいに100兆円の提供を日本に求め、これを福田首相は辞任というかたちで拒絶したと言われています) それを軽々しく「ひとごとのように聞こえる」などと「目下と思われる記者」(失礼!)に指摘されたのです。このときの福田首相(当時)の発言、これを非難することや、笑うことは私にはできません。それどころか、よくこの程度の抑えた内容で返答できたなと感心するのです。

また、テレビの討論番組などで、それまで比較的穏やかに話していた著名人や学者が、誰かの些細な発言に我を忘れて、相手を口汚く罵るのもしばしば目にする光景です。これも怒りの発火点は、起点となった発言を「誰がしたか」なのです。「目下」のものが自分の考えに何かモノ申したときに、この悲劇は起こるのです。発言者は何が起きたのかも分からずに青ざめるだけです。但し、この人の虎の尻尾を盛大な踏んだな、オレは…ということは分かります。

そして、会社という組織の中でも一年中、このことが起きている様に思います。「物分かりが良く温厚というスタンス」で上司が自分のプランや考えを開陳し、「さぁ、意見や考え、間違えがあったら指摘してくれ」などといって和やかに会議が始まります。やがて、「目下」の誰かが不用意な発言をしてしまうと、気持ちよく終わるハズだった会議が長時間の面倒臭いものに変わったりします。例えば、「利益計画の根拠となるデータを教えて下さい」とか「競合比較が足りないように思います」とか… まぁ、これも上司の立場だったら「カチン」ときますよね。まぁ、言った方は言えと言われたので、一所懸命発言しただけなのですが。

そもそも相手のことを「目下」などと見なすことが間違いなのかも知れませんが、人間として社会に生きる以上、無意識のうちにも相手を自分との関係でランク付け(序列付け)してしまうのは人間の本能の様に思います。会社の場合は「役職」とか「社員グレード」といった「相手をランク付けしても罪悪感を覚えない属性情報」が一人ひとりに付けられています。知らぬは本人ばかりで、いつの間にか相手にとって自分が「目下」にされたりしているのです。いるでしょ、何だか急にエラそうに上から話すようになった同期とか、後輩とか。怖い話です。

中高年は雇用延長で会社に残っても、再就職をして転職をした場合でも、多くは、周囲から「目下」に見られることになるように思います。そのことで憤慨しても何にもなりませんし、「目下」と思うのは相手の勝手なので、こちらは何にもできません。失礼な話ですよね、年長者に向かって…
そんな状況であっても、「自分を失わず、自分の職分の中でできることをする」これが、「中高年の鑑」とされるべき生き方なのでしょう、きっと。しかし、そんな風にキレイには生きられないのです。何十年もきちんと生活をしてきた自分が「目下」と思われたり、扱われたりして、面白い訳がないのです。会社や組織にオサラバをする日まで、忸怩たる思いをし続けるのです。
私は「目下と思っているものに鼻を明かされるとどんな人でもキレる」という世界の真理を得てから、随分とこのあたりの処し方が楽になりました。私を目下と思っている人には「何を言っても怒らせるだけ」なので、適当な距離を、否、できれば近寄らないのです。まぁ、いいじゃないですか、自分を守るのは自分なのですから。

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