咳と痰の症状が少しだけ緩和したので、お医者さんに行くのをどうしようかと考えたのですが、来週まで具合が悪いままではいられないので、午前中にヨタヨタと行ってきました。結果、特に肺炎とか、他の重大な病気の兆しはなく、咳止め、痰切の薬の処方箋を出してもらって、これを飲んでしばらくは様子をみることになりました。

「病は気から」でしょうか、お医者さんに診てもらったら、各段に具合がよくなった様な気がします。無理をせずに、今晩も早目に寝てしまうことにいたしましょう。

どこに行っても老人は喋り続けています。スーパーのレジでも、役所でも、病院でも、銀行でも、駅の精算所でも。自分がその一味であることを棚にあげて言うならば、「もううんざり」です。今日も薬局で、薬を出してもらうときに、80歳前ぐらいのオジイサンが窓口を延々と占拠して、独演会をしていました。早くどいてね。

そもそも、老人は何をそんなに喋っているのか。私が思うに、どうでもいいことを、繰り返し喋っているから、「話が長く、終わらない」のです。「どうでもいいこと」なんだけれど、それを喋らずにはいられない。そして、まるで中身の無い話を何度も繰り返してしまう。

その背景にあるものは、そんなことをしていたら、他人に迷惑を掛けるといった配慮とか、用を終えたらそこを立ち去るといった「日常の当たり前の感覚の欠如」なのでしょう。これがないから、延々と歯止めがきかない。誰かが相手をしてしまうとうれしくなって、ここぞとばかりにゾーンに入ってしまう。

更に、この「日常の当たり前の感覚の欠如」の原因にあるものは、やはりニンゲンとしての機能の「劣化」なのでしょう。だから、誰にでもその可能性はあるし、私だって、若い人たちからしたら、話がくどいなんて言われているに違いないのです。

だから、この「劣化」を自ら認めて、何とか「持ちこたえる」ことをしなければならないなぁと私は思うのです。とにかく「必要以外」のことは、家の外では喋らない。勿論、家族や、親しい人たちとの間では別ですよ。こういう人たちとの間では、「必要以外」のことを互いに話すのが楽しいのですから。

それから、「知っていること」「分かっていること」をムダに相手に確認しない。「喋り続ける老人」の話の大半は「そんなこと、分かってるでしょ」ということを敢えて、相手にぶつけているのです。これ、実は巧妙な罠で、相手がまともに返答をすると「間違い」を指摘してみたり、自分はもっと知っているとマウントを取ったりするのです。本当に困ったものです。

更に、「老人は老人がキライ」なので、こういうお喋りの相手に老人を選ぶことはないのです。このあたりも本当にズルいのです。「劣化」しても、こんな部分は残るんだから。これから先、もっともっと街に高齢者が増えていったら、若い人たち、現役世代の人たちに深刻な被害が生じることになるかも知れません。老人の相手をするAIの整備が急がれるのです。

それで、どんなに憤慨したり、嘆いても、私にできることはただ一つ。自分がそんな「喋り続ける老人にならない」ことだけなのです。さくっと用事を済ませて、さっさと家に帰る。それができなくなったら、いよいよだなぁ。

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東京地方、明日からは「暑く」なって、来週の半ばには35℃近くに気温が上がる日もあるそうです。きっと「病み上がり」の状態でしょうから、無理をしないようにしなければ。暑いからと、冷たい飲み物ばかり飲んでいると、何だか体がダルくなっちゃうんですよね。

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