とにかく蒸し暑くて、ただ街を歩いているだけで、体力がどんどんと削がれていきます。まだ6月も半ばだというのに、今年の夏が思いやられます。体調は随分と元に戻りましたが、まだ「病み上がり感」が残っていて、活力というか、あれやこれやをしたいとは思いません。それで、終業時間になるのを待って、這う這うの体で職場から逃げ出して、ようやく帰宅となりました。

「現役」と「老後」の生き方で、一番の違いは「多くを望むか否か」であると思うに至りました。「現役」の頃はあれも、これもと手に入れられる可能性があるものは、何でもかんでも「クレクレタコラ」で、それが活力の源で頑張っていた様に思います。

それが、「現役」と「老後」の間にある不幸な一時期を経て、「そんなにいろんなものは要らないよ」という心持ちに変わっていく。そこからが「老後」という訳です。

ちなみに「不幸な一時期」というのは、「現役」が終わっているにも関わらず、まだ自分はその頃を生きている様に思って、カラカラと空回りをしている期間のことです。みんな多かれ少なかれ、こういう面倒臭い時期を経て、「老後」に至るのです。人生の大半を「現役」で過ごしてきたんだから、仕方ないよね、そのくらいの後遺症は。

正確に言うならば「多くを望まない」ではなく、「多くを望めない」なんですけどね。幾つになってもニンゲンなんていうものは「計算」と「妥協」で着地点を決めるものなので、「今の自分からすると、このくらいだったら及第点」なんてところを勝手に決めつけて納得をするのです。

この「セコい行動原理」は老後も同じなのですが、その着地点は老いれば老いる程に「低く」なるし、更にはそのことを悔しいとも思わなくなります。だって、総合的に勘案するに、これから先、「多くは望めない」のですから。

それを従容と受け入れて、粛々と生きていくというのが「老後」の最も自然な姿かも知れません。何というか、キレイな老後の生き方というか。ただただ無気力というか。

その一番端的なものが「老後の仕事の給料」だったりします。最初の頃は「こんな新入社員の初任給みたいな給料で働けるかよ」とか「同一労働、同一賃金じゃないのかよ」などと憤ったりするのですが、しばらくすると、「こうやって、働かせてもらっているだけで有難い」などと、「老後の自分」の社会的価値?みたいなものにキレイに着地してしまいます。

勿論、こういうのって、何度も「とは言ってもねぇ」などと揺り返しがあって、イラ立ったり、悲しくなったり、暴れたりするのですが、その度により低いところ、より「何も望まないところ」に着地し直す様に思います。私も、何度も何度も着地し直しましたよ。それで、今に至る。そして、この繰り返し。

結局は、自分が痛くないところ、楽なところを探して、だらだらと下山しているみたいなものですけどね。また一つ頑張ることを止めた、最近はそれでもいいかなと思ったりするのです。

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明日(6/17)は今日よりも更に暑くなって、東京地方は最高気温が35℃にもなるらしいのです。職場は冷房が効いて涼しいんですけどね。おもてで働いている方、用事があって外出する方、十分に暑さにご注意下さいませ。

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