フリー・アドレスといいながら、いつの間にか席が固定されてしまい、しばらくすると「お決まりの風景」がフロアの中に出来上がっていきます。キンタローもいつもの様に、出口に近い目立たぬ席に座ります。

取引先情報の登録や変更、削除といった単純なデータのメンテナンスが、今のキンタローの仕事です。数年前に導入された社内文書申請システム「マサカリ」を通じて担当者が上申し、組織長が承認した申請データをできるだけ速やかにデータベースに入力していきます。とは言っても、多くても一日に10件程度の申請があるだけなので、キンタローは間違いがない様に十分に時間を掛けて作業を進めます。

雇用延長も2年目となり、最初は戸惑っていた会社での過ごし方にも、キンタローはすっかり慣れました。
昼食は大体ひとり、自分の席で食べます。数名いる同じ部署の人間もフリー・アドレスでバラバラの席に座り、そもそもが殆ど名前もよく覚えていないのです。コンビニで買ったおにぎりやサンドイッチ、菓子パンといったものをペットボトルの飲物で胃に流し込みます。
僅か10分程で食べ終えてしまうとキンタローは目を閉じて、しばらく休憩を取ります。
そして、昼休みが終わると、キンタローは苛立ちもせず、寂し気な様子を見せる訳でもなく、再び仕事を始めるのです。

あれはキンタローがまだ入社3年目の秋のことでした。当時会社が事業化を検討していた「ペットと暮らす里山永住ライフ」という分譲地の開発に、環境対策の専門家としてキンタローは加わっていました。
キンタローは子供の頃から自然や生き物が大好きで、大学で更に学び、この知識を生かした「自然と共生する住居」の提供を夢見て「足柄ハウス」に入社したのです。

その日、プロジェクトルームにシャキッとしたスーツを着た何だか偉そうな人が、何人もお供を引き連れてやって来ました。キンタローはこれが誰だかさっぱり分かりませんでしたが、周囲から「源(みなもと)常務の御成りだよ」という囁きが聞こえます。

源常務はホワイトボードを眺め、プロジェクトメンバーではなく連れてきたお供の面々にそこに書かれている内容の説明をさせ始めます。そして、急にキンタローの方を見て、「キミもこの話、何となく理解くらいしているの?」などと、小馬鹿にした態度で尋ねます。
キンタローは別に怒りもしませんでしたが、「お供の説明」に誤りがあるので、それを分かり易く説明します。源常務は少し驚いた様子で「ふーん」などと言っています。
面目を潰されたお供の面々は必死に何だか難しい用語を使って、源常務により詳しい説明を試みます。源常務はひとしきり聞き終えると再びキンタローの方を見て、「どうやら、そういうことらしいよ」と言います。キンタローは再びその説明にも誤りがあることをやんわりと指摘し、論点を課題と解決アプローチに分解して源常務に説明します。

源常務は「あっぱれだね」と感服し、自分の側近として仕事をして欲しいとキンタローを「常務付」に異動させました。

源常務はやがて社長まで上り詰め、キンタローも大いにその栄達に貢献をしました。環境問題への取り組みが社会で重視され始めた時期で、キンタローの深い見識が「環境に優しい足柄ハウス」という会社戦略をずっと支えてきたのです。

やがて、源社長も退任すると、残された側近のものたちは「煙たがられ」、一人また一人と早期退職をしては会社を去っていきました。

キンタローも早期退職を考えたものの、それができませんでした。妻が5年前にかかった病気には高額な治療費が必要であり、加えて少し無理をして購入した住宅のローンもまだまだ残っており、更には結婚生活が上手く行かず娘が孫を連れて家に戻ってきていたのです。大幅に給料が下がったものの、少なくとも年金の支給が開始されるまでは雇用延長で仕事を続けることがキンタローには必要だったのです。

そんなある日、いつもの席でいつもの様に、静かに仕事をしていたキンタローに「廃れているリゾート地を自然共生型の長期滞在施設に再開発するプロジェクト」への参画が命じられます。
大規模な工事となることが予想されるものの、若いメンバーでは役所や地元住民を納得させられる開発プランがどうしても立てることができず、ダメ元でキンタローに白羽の矢が立ったのです。

2ヶ月の間、キンタローは眠る間も惜しんで仕事をし、素晴らしい自然共生のプランを作り上げ、無事、プロジェクトの実現へと道筋をつけました。その知識は少しも古びず、自然を愛する思いに満ちた深みのある構想力も錆び付いてはいませんでした。

そして、キンタローはいつもの席で、再び取引先企業に関するデータ入力作業を黙々と続けています。

今回の成功の後、「キンタローを再び現場に戻すべきだ」という声が上がりましたが、あの当時はあんなに感謝をしていたプロジェクト責任者が「もうキンタローさんを有難がる時代ではない!」と反対の声を上げ、その話は立ち消えになりました。
この話を誰からともなく聞いたキンタローは「オレでも同じことを言うだろうな」と思いました。そこには少しの怒りもありませんでした。
そして、まだ、誰かが自分を必要だと思ってくれたことがうれしくて、心の中がじんわりと暖かくなったのです。

キンタローは思うのです。正体が見え辛い相手ではあるが、今、オレはオレにしかできない戦いをしているのだと。
そして、いつの日か、すべてのことが夢の様に解決したら、自らが関わった幾つもの開発プロジェクトの「完成後の姿」を見に行きたいと思うのです。

おしまい


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