また、体調が悪化してしまいました。昨日少し回復の兆しがあったというのに。朝からずーっと頭痛が続いて、何とか午前中は凌いでいたものの、午後になったら目も開けていられない状態になりました。

それでこの症状に効くか不明だったものの、取り敢えず「頭痛」を何とかしようとバファリンを飲んで、ベッドで横になりました。すると1時間もしない中に、頭痛も随分と治まりました。よかった…そうしたら、無性に甘いものが欲しくなって、フラフラと近くのコンビニまで行って、昔ながらの「コーヒー牛乳」を買ってきました。

コップに注いで、ちびちび飲んでいたら、気持ちがだんだんと和らいでいきました。やっぱり、具合が悪いときは「昔ながらの好きなもの」に限ります。どんな高価をものよりも。

さて、明日から9月、早いものです。来年は2025年、世間では「2025年問題」「2025年の崖」といった「リスクを煽る動き」を声高に訴える人でいっぱいです。昔からそうなんでしょうが、人はこういう「ヤバイ未来」に惹かれてしまいます。

乱暴にまとめてしまうとこんなところでしょうか。
2025年問題:団塊の世代が皆、後期高齢者(75歳以上)になる→この人たちの医療機関での自己負担が1割になる→この負担を若い世代が担う→そもそも数が少ない若い世代の税負担が更に重くなる→社会がどーんと暗くなって、様々な活動が停滞する→少子化が更に加速する→詰む。

2025年の崖:思ったよりもシステム化、IT化が進んでいなかった企業がいよいよ2025年になると国際競争力を失う→多大な経済損失が発生し、国の財政、国民生活が危機にさらされる→こぞってDX化を急がないと競争劣位は更に拡大する→詰む。

とは言っても、どちらも「2025年」になった途端に、急に降り掛かって来るものではなく、これまでだって、徐々に進行してきたものなのであり、とうの昔に皆分かっていたことなのです。それをゴロがよいのか、どこかで何かの力が働いているのか、今となって、こんな風に大騒ぎしている様に思いますヨ、私は。

それで、私が今日のエントリで何を言いたいかと言えば、こんな未来が来るなんて30年前には誰も分からなかったんだし、これからだって、未来のことは分からない。それに、平穏無事な社会なんて、たかだか数十年間継続しているだけに過ぎないのです。

だから、いいじゃないですか、暗澹たる未来がこの先に横たわっていても、そのときになって、みんなでヨタヨタとそれに向き合っていけば。シンプルに言ってしまえば、「だから、どうした」です。

2025年問題を誰もが忘れてしまった頃には、2027年問題やら、2030年問題やら、ひっきり無しに毎年危機が訪れるのだそうです。「だから、どうした」、そのとき、そこにいる人で何とかしていくだけですしね。

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昔の本って、やたらと活字が小さいんですよね。図書館で古い本を借りてくると、最初のページから頭がクラクラしてしまいます。昔はどうやって、あんな細かいものを読んでいたのか不思議です。

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