コロナ禍に見舞われて、しばらくは旅行にも行っていませんが、旅行の楽しみの一つ(とても大きな楽しみ)に、宿泊先での食事があります。

中でも私は朝食が楽しみなのです。きちんと席とメニュが決まっている落ち着いた朝食もよいのですが、好きなものを好きなだけ食べることができるビュッフェ形式だった場合、私には「大きな期待」があります。それは「オムレツ」をその場で焼いてくれるサービスです。フライパンを持ったコックさんのところに行き、オムレツを焼いて下さいと言えば、「プレーンですか、チーズですか、野菜入りですか」などとバリエーションを尋ねてくれます。少し迷いますが、その時の気分で、「チーズ+野菜で」などと勝手なことを言います。するとコックさんが鮮やかな手つきで、素早く、焼きたてで、暖かい絶品を作ってくれます。ふんわりした食感で、口の中に卵の甘さが広がり、幸せでにんまりとしてしまいます。

「オムレツ」は定義がとても寛容な食べ物で、敢えて言うならば「フライパンで焼かれた平面をなす卵」で、そこに何を加えても、何を焼いた卵で包んでも、それがどんな形状でもオムレツなのだそうです。日本のお弁当に欠かせない厚焼き玉子もオムレツのバリエーションと見なされるとか。ふむふむ。

オムレツは幸せな食べ物です。ずっと昔、母が作ってくれたオムレツには挽き肉などの具がたくさん中に入っていたご馳走でした。オムライスのライス部分の代わりに挽き肉、玉ねぎ、ニンジンなどを炒めたものが詰まっているイメージです。私はずっとオムレツとは、そういう料理だと思っていたので、しばらくして外の世界の様子を知り、「オムレツ」にもいろいろなスタイルがあることを知りました。最近流行りの「多様性」に触れた訳です。

家の中の当たり前が、外の世界でそうでなかった場合、昔は何となくそのことを恥じていたものでした。家の経済的な事情や、父母の生い立ち・家族の歴史などを理解することなく、「世の中と違う」ことが薄っぺらい子供からすると恥ずかしいことに思えたのです。

最近、多様な統計データが公開され、しかも簡単に入手・加工ができる様になり、また、インターネットなどでいろいろと喧伝されることから、皆な「普通でなければダメ」という恐怖に囚われている様に思えます。平均値だ、中央値だと大騒ぎです。そんなことは暮らしている本人たちが幸せならば、どうでもいいことなのです。「普通」を強く意識してしまうと、つまらない優越感や、実体のない不幸や不公平といった感情が頭の中に渦巻いてしまい、それが人の心をいつの間にか支配してしまう様に思うのです。

世の中には本当は「普通」などないのでしょう。我が家では「トマトに砂糖をかけて」食べていましたし、「鉛筆はナイフで削って」使っていました。家族の思い出は、その家だけにある「約束ごと」や「何気ない習慣」に強く紐付いているのですから。

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