今日、久し振りにzoomを使いました。数年前まではあんなに「当たり前」に毎日の様に使っていたのに、2年半振りに使うことになったら、キレイさっぱり使い方を忘れていました。最近重宝しているタブレットPCがカメラ付きなので、これを使うことにしたのですが、カメラの方向は反対を向いているし、背景のぼやかし方もどうすればいいか思い出せません。焦ったぜ。
まぁ、次に使うのはいつなのか、もしかしたらもはや使うこともないかも知れないので、ミーティング終了後に少し「しんみり」としました。「思えばあれが最後のzoomでした…」なんてね。
きっとオフィスじゃ、今もどんどん新しいビジネスツールが登場してるんでしょうね。ChatGPTなんかも、当たり前に使ってるのかな。今度誰かに聞いてみることにしましょう。
思えば「あれが最後のXXX」だらけです。当たり前です。そうなるだろうという予感がしているものも中にはありますが、ほとんどの場合が知らず知らずのうちに「その瞬間」が過ぎ去っていきます。例えば「父母と一緒に食べた最後の食事」とか、「最後の海外出張」とか、「最後の縁日のヤキソバ」とか。
中でも繰り返し思い出す「あれが最後のXXX」は、決まってどんなにお金を積んでも、どんなに無理を言っても再現できないものです。今は死んでしまった人たちに関するもの、失われてしまったモノに関するもの、忘れてしまった場所に関するもの…そういうものです。
私が住んでいる家は、父母と暮らしていた家の「隣の敷地」に建てたものです。父母と暮らしていた家は、父母が亡くなった後も兄の家族が住んでいたのですが、兄が別の土地に越すことになり、家と土地を処分しました。
しばらくは誰も住まなくなった家がそのままになっていたのですが、やがて、取り壊しの日が来て、僅か数日の間に跡形もなく解体され、更地になってしまいました。
そのときの喪失感は今も強烈に脳裏に刻まれています。しばらくは何も手に付かず抜け殻の様になっていました。家の姿があることで、何となくまだ「あの頃」が続いていた様に思っていたのが、突然にすべてが断ち切られてしまいました。
残されたのは「あれが最後のXXX」ばかりです。否、正確には、それすらも思い出せないのが悔しいのです。あの幸せな日々が、無限に続くとでも思っていたに違いありません。愚かしい、余りに愚かしい限りです。「大切なものは、失ってから初めてその価値が分かる」というのは悲しい真実ですね。
さすがに9月も半ばともなれば、夜になると随分と温度が下がる様になりました。窓の外では虫の大合唱です。数年前、家の中に一匹のカネタタキが迷い込んできたことを思い出しました。はかない「チンチンチン」という声が聞こえて、音源をたどったところ彼に出会いました。
そっと掌に包んで外に帰ってもらいましたが、今だと愛猫に追い掛けられて大変なことになりそうです。