物価がどんどん上がっていて、家で食事を作っても、外食をしても、そんなに費用が変わりません。それどころか、お店で食べた方が安い様にも思えます。特に贅沢をしなくても、一人一食分で1,500円ぐらいの買い物をスーパーでしてしまいますからね。
近頃は、調子よく買物カゴに品物を放り込んで、いざ会計というときに「ええっ」と毎回思ってしまいます。もはや果物なんて高級品になってしまいました。最後の味方はうどんとパスタですかね。
ようつべで動画を見ていたら、サッカーの本田圭佑さんが「量をこなした人しか、質を語れない」といったことを話していて、「そのとおり、そのとおり」と頷いてしまいました。この人も、野球の新庄監督も、普段の言動から「ちゃらい」印象を受けますが、語る言葉がすべて「自分が体験したこと」「自分できちんと消化したこと」に基いていて、本物なんだなと思うのです。
失敗したときや、乗り越えねばならない壁があったときに、如何に自分がそれに立ち向かったのか、その過程で何が起きて、何を思ったのか、それを語る言葉に「実際にやってきた人」でしか得られない重みがあるのです。
それで「量をこなした人しか、質を語れない」ですが、これ、日本の至るところで取り組まれている「改革」において、当事者に最も欠かせない要素の様に思うのです。何かを変えようとする、変化をもたらすためには「若者、よそ者、馬鹿者」が必要だなどと言いますが、日々、地道に続けられていることを変えていく、よりよいものにするためには、やはり、そのことをずっとやり続けてきた人の経験、思いに耳を傾けることが欠かせない様に思います。
「新しく来た誰か」というのは、とかく前任者や従前のやり方を否定し、自分が来てこんなによくなったということを周囲に訴えたいものなのです。勿論、「新しく来た誰か」は現状を変える、よくするのが使命ですから、結果として生じた「改悪」も「熱意」の一部なんでしょうけどね。
そんなときに「量をこなした人しか、質を語れない」をきちんと分かっている人が、変革、改革を推進するのが最高!に違いありません。けれど、「量をこなした人」は、大体が現場で欠かすことができない存在になっていて、しかも本人がその仕事と一体化して、別のことをやらせる訳にはいかなかったりするのです。世の中、上手くいかないものです。
他人のことはさておき、「量をこなした人しか、質を語れない」、自分の身の処し方として、しっかりと胸に刻みたいと思います。もはや自分自身は「量」もこなせないし、「質を語る」様な機会もないけどね。
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TV番組の録画って、大体が改めて再生されることなく、録画したハードディスクだけがどんどんと増えていく一方です。私の場合、2TBのものが既に6本になっていて、未消化の録画が多数あるストレスと共に、もはやハードディスクの存在自体が邪魔なのです。録画したら、1週間以内に観る、それで消す。観なくても、1週間が経過したら消す。こういう習慣にしようかな。