昨日(7/20)、17時頃に投票をしに行きました。投票所は家から歩いて10分程の集会所みたいな場所です。家を出た途端に、余りの暑さで気絶しそうになりました。よくSF小説の設定にある「段々に気温が上がっていく世界」とはこういうものなんだなと思いました。あとしばらくしたら、誰も住めなくなってしまう。
カミさんとふたり、建物が作る日影を選んでペタペタと歩いていきました。投票所では少し待ち行列が出来ていたものの、程なく投票をすることができ、少し買物をして帰りました。人間というのは大したもので、家を出たときには「暑くてたまらん」なんて思っていたのが、僅か30分間くらいですっかり慣れてしまい、「こういうのも夏らしくていいね」などと言ってしまいます。
風がさーっと吹いてきて、今日という一日も終わりかけているんだなと、そんなことを考えました。
少子高齢化やら不景気もどこ吹く風で、我家の周囲には新しい家が次々と建てられていきます。早朝から職人さんたちが忙しく働く姿を傍目に、私はその場所に以前暮らしていた人のことを考えたりします。かなり高齢のご夫婦が住んでいて、ご主人が先に亡くなってしまい、それから数年してから奥様も亡くなってしまったのです。
それからしばらくは「空き家」になっていたのが、或る日突然に家が取り壊されて、平な土地になって、「売土地」という看板が立てられて、やがて、新しい家が建てられ始めました。きっと、ここに誰が住んでいたかなんて、今覚えている人たちがいなくなってしまったら、もはや誰の記憶からも失われてしまうことでしょう。
今、私が暮らしている家だって、きっと後30年もすれば、跡形もなくなって、どこかの誰かが、そこに新しい家を建てて暮らしているに違いありません。そして、それを近所の誰かが、今の私の様に時折思い出しては、「あそこはね、高齢のご夫婦が住んでいてね」などと語るのです。
昔はこんなこと、考えることもありませんでしたが、最近は「自分のいなくなった後の世界」のことをふと考えることがあります。未練もなく、誰かに覚えていてもらいたいなどとは微塵も思いませんが、「自分のいなくなった後の世界」を見てみたいと思うのです。
人間は愚かしい生き物なので、平和で幸せな時間はきっと長続きはしないことでしょう。私たちは長い長い時間の中で、「ほんの一瞬だけ訪れた奇跡のとき」に暮らしていたに違いありません。けれど、私は「自分のいなくなった後の世界」も、今と同じ様な穏やかなものであることを信じて、夢想するのです。
我家の跡地には幸せな家族が住んで、家族に愛される猫ちゃんがいて、切らずに残された庭木がすくっと生えていて、行き止まりの急な坂をお父さんもお母さんも「しんどいなぁ」などと言いながら、何千回、何万回も上っては家に帰っていく。そんな未来を近くの電柱の上に腰かけて、眺めてみたいのです。
その頃には地中配線されていて、「電柱」なんて無くなっているのかも知れませんけれど。
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三連休も瞬く間に終わってしまいました。明日からまた「フツー」が始まります。うんざりしますが、数週間後の「夏休み」だけを心の拠り所にして、頑張ります。