今日(10/18)のドジャースの試合、一生忘れない「スゴイもの」を見せてもらいました。投げて、打って、打って、打って… これでドジャースはワールドシリーズに進出です。大谷選手の活躍を、この先もまだ観ることができるのは本当に幸せです。でも次の試合、来週の土曜日(10/25)までないんですよね。日本国民はこれからの一週間、どれだけの欠乏感に苦しむことでしょう。社会が不安定にならないか心配です。

「その後の生活」が気になります。大ヒットを飛ばしたアーティストの「その後の生活」。歴史上の偉人たちが一線を退いた「その後の生活」。けれど、学生時代の友人、会社の同僚、といった身近な人たちの「その後の生活」はほとんど気にならないのです。きっと、自分と似たり寄ったりで、だらだらと、したたかに、退屈しながらも毎日をたくましく生きているに違いありません。そこは信頼しているのです。

若い頃に「ある高み」に達し、世間がそのアウトプットに魅せられて、一躍時代の寵児となる。ところが、そんな人たちがも、ある時、自分に貯えていた創造の源泉とも言うべき「コア」がすっかり失われていることに気付く、もしくは、つまらないものの様に思われて、創作活動を停止させてしまう。そんな「感じ」なんでしょうかね。

一度たりとも「ある高み」なんてところに達したことがない私にとっては、あの才能豊かな芸術家が突然に表舞台から姿を消してしまう、作品を発表せずに沈黙してしまうことが、常々信じられないのです。されど、事情はともかくとして、そんな人たちも「その後の人生」を送ることになります。

生きるために大変な苦労をしている、転身して大成功している。私が気になるのは「そういうこと」ではなくて、創造の泉が枯れた後(勝手な想像)で、どうやって自分と折り合いをつけてきたかが知りたいのです。政治家だったり、経営者だったりした場合は、自分自身は大して変わらないのに、もはや大きなものを動かすことができないという事実と、どう向き合ってきたかが知りたいのです。

それは、私の様な平々凡々と市井に暮らすものには決して味わうことのできない、葛藤や苦しみがあるのかも知れません。失意だったり、諦めの感情だったりするのかも知れません。私ごときの凡夫では、理解や共感など出来はしないのでしょうが、訳もなく、その深淵を覗いてみたいのです。

時折、そんな視点、観点で書かれた本や、TVのドキュメンタリー番組に出会うと、食い入るように眺めてしまいます。例え「その後の人生」は苦渋に満ちたものであったとしても、そういった人たちが世の中に出してくれたものは、いつまでも私を幸せな気持ちにさせてくれます。そして、そんな私の「気持ち」を「その後の人生」を過ごす人たちに伝えたいなぁと思ったりするのです。その人たちにとっては「ありがた迷惑」でしょうけれど。

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週明けの月曜日から、東京地方も気温がガクっと下がるのだとか。いよいよ半袖のポロシャツを、タンスにしまうタイミングが来た様子です。来年、といっても4月頃には、またお世話になることでしょう。よく頑張ってくれました。

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投稿者
おーちゃんパパ

おーちゃんパパ

2021年3月に35年勤めた会社を早期退職しました。カミさんと世界で一番可愛いメインクーンと暮らしています。