とあるところで応募していた懸賞に当選しました。商品は大吟醸の日本酒一升。特に熱望した訳ではなく、何となくの応募。これが家に届きました。大いに期待していた人たちには悪いことをしましたが、無欲の勝利というの真実だった訳です。
ここしばらくは私もカミさんもお酒を飲んでいなかったのですが、せっかくなので、夕食のときに少しだけ飲んでみました。私はアルコール、特に日本酒の味はまったく分かりませんが、カミさんはお酒をちゃんと飲める人なのです。カミさん曰く「無茶苦茶に辛い、まろやかの真逆」なのだそうです。取り敢えず、我家に転がり込んできた幸運をふたりして味わいました。
数日前のエントリで、最近思うこととして、「自由とは選択肢があることだ」なんて書いたのですが、これは大変な舌足らずで、「自由とは選択肢があることで、xxができることだ」というのが正しい説明だったのです。
それで、改めて言い直すならば「自由とは選択肢があることで、いつでも『やめられる』ことだ」というのが、私自身にとっては一番ピンと来るフレーズです。以前のエントリでも、少しだけ「やめる」自由についても書いていますが、今日のエントリではその部分を少し拡大することにします。
「やめる」をネガティブととらえるか、次へのスタートの第一歩として前向きにとらえるか、それはそのときの状況次第ですが、いずれにせよ、一度「やめる」を考えると、それは少しずつ心の中に根を伸ばしていきます。そして、やがて花が咲き、「やめる」の果実が実ります。
ちなみに私、「やる」と決めたことを取り下げる(結局はやらない)ケースは数限りなくあるのですが、「やめる」と考えたことは、ほぼ100%そのままに「やめて」しまいます。特に大きな決断であればある程に、そうなりがちなのです。それで、その後に後悔することも多々あったりします。子供の頃からの悪いクセの様なものなのです。
これって、後悔をするぐらいですから、本当は「やめられる自由」など持っていなかったのに、ただただ「やめたい」という気持ちを優先させてしまった哀れな顛末ということになります。理由は何にせよ「やめたい」と思い、そのとおりにしても何ら後悔が残らない。「その次」の景色の方が、ずっと魅力的だから。本当はそれが理想なんですけどね。なかなかにそうもいかないのです。
それに「やめたい」という感情は、おそらく「最強」のものの一つで、もしかしたら「やりたい」よりもずっとニンゲンを支配してしまう様に思うのです。ときには「やめたい」を乗り越えた先に、別の世界が見えてくるなんてこともありますけどね。
若い頃と違って、63歳、もうすぐ64歳になる身からすると、そう思い切って「やーめた」という判断もできないのです。それは、そのことで後悔をしても、もうリカバリーができないから。でも「やめたい」を心の中で飼ったまま毎日を過ごすというのも、精神衛生上よろしくありません。
若い頃にきちんと「やめられる自由」を手に入れておかなかったツケが回っているのです。あーあ、いろんなこと「やめたい」なぁ。
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寝不足がたたって、職場で急激な睡魔に襲われることがあります。そんなときはミントのタブレットを齧ったり、エナジードリンクを飲んだりして、カフェインの力を借りて乗り切っているのです。それが最近は以前以上にヒドイことになっていて、一日にミントタブレット2箱、レッドxxを3本を飲んで何とか凌ぐこともザラにあるのです。体にもお財布にも悪いので、何とかしないといけません。
ということで、カフェインの錠剤という危険な代物をAmazonでポチってしまいました。きっと解決方法は「そっち」ではないと思うんですけどね。