近所で建てていた家があって、ずっと注文住宅だと思っていたのですが、出来上がってみると「戸建て販売」物件でした。超大手のハウジングメーカーの物件なのですが、価格がさっぱり分からず、「お幾ら万円なのかしら?」と思っていたのです。

今日、夕方に買物に行った帰り、17時頃だったでしょうか、営業の人も既にいなくなっていて、家の前にチラシスタンドがあったので、シレっと案内のチラシをいただいたのです。ご自由にお持ちくださいって書いてあったから、買う気は無いけど、許してね。

それで、気になっていた販売価格をみて、軽く衝撃が走りました。何と、1億2,000万円越えだったのです。世の中、いつの間にかスゴイことになっていたんですね。どうやって支払うのか、まったくイメージがつきません。若くて、裕福な人をターゲットにした物件なのかしらん。でも、邸宅なんて感じではなくて、少し狭いぐらいのフツーの家なんですけどね。

さて、人は何をもって「幸せ」を感じるのか、本当に千差万別です。特にマスメディアが衰退して、ステレオタイプの価値観がほぼ崩壊してしまった現在では、もはや誰もが認める?「幸せ」なんてものはすっかり姿を消してしまいました。

急に何でこんなことをエントリに書いているかと言えば、これまで、長いこと「幸せ」だと思ってきたことが、少しも「幸せ」に思えなくなってきているのです。例えば、評判がよくて、予約もなかなかに取れない様な飲食店で食事をする。それが、誰かの「ゴチ」であったとしても、それよりも、家でキャベツとウインナーを炒めたものをボソボソと食べる方がずっと幸せに思うのです。(特にキャベツやウインナーが好きな訳ではない)

万事がこういった調子になってきて、これまで「幸せ」だと思い込まされてきた、刷り込まれてきたものの殆どに対して、関心がさっぱり向かないのです。この背景にあるものの一つには「大して稼げなくなってしまったので、お金が心配」というものがあるのは確かでしょう。「幸せ」にはお金が掛かるものですからね。

けれど、それだけではないんですよね。老いて、いろいろなことの前線から遠く離れ、お仕着せの「幸せ」の呪いが解けたら、実は自分が本当に「幸せ」と思うことは「これだった」と気付かされた、そんな感じでしょうか。そして、そんな「幸せ」の大半が、子供の頃に過ごした風景の中にあるものだったりするのです。

雨の音を聞きながら寝付くこと、夕暮れの時間に家路を急ぐこと、お肉屋さんで買うコロッケやハムカツ、日曜日の朝に街を歩くこと、おやつに食べるバナナや肉まん、風に揺れるベランダの洗濯物を眺めること、酸味の強いリンゴ…. 何だか、残りの人生はこういうものがあれば、それで十分に思えたりします。

どうして、もっと早く、こんなことに気付かなかったのでしょうね。誰かが決めた「幸せ」を一所懸命に追いかけて、これまでどれだけの時間を食い荒らしてしまったことか。もう十分に遅いのですが、これからはとにかく「自分が幸せだと思うことファースト」で生きていきたいものです。カミさんが不愉快にならない程度にね。

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金属疲労ならぬ、勤続疲労というのは確かにある様に思います。人は体力や、知力が衰えて働けなくなるのではなく、蓄積された勤続疲労が或る日突然にしきい値を超えてしまい、「もうダメだ」となるのです。最近、そろそろ「しきい値」を超えそうだなぁ、などと思ったりします。また、月曜日がやって来ます。

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投稿者
おーちゃんパパ

おーちゃんパパ

2021年3月に35年勤めた会社を早期退職しました。カミさんと世界で一番可愛いメインクーンと暮らしています。