老いることは「万が一」がどんどん無くなっていくということに他なりません。だから、「そんなときが来るかも」「そんなことに備えて」なんて考えは、まるっと捨ててしまってもよいのでしょう。こんな割り切りをするならば、これまでせっせと貯えてきたモノの多くをちゃっちゃっと処分できそうです。
けれど、3つの理由でそうもいかないんですよね。先ずは「勿体ない」です。せっかくお金を払ったものを、まだ使えるというのに捨ててしまうことには抵抗があるのです。次は「まだ期待している」です。今は眠っているモノたちが活躍する未来を、心の奥では期待しているのです。そんなこと、天地がひっくり返っても、月が落ちてきても、ありえないのにね。
そして最後は「愛着」です。特に今は大して使うことが無くても、長年部屋のどこかに転がっていたものを処分してしまうのは忍びないのです。
そんなことを言っていても、あと数年もしたら、きっと「もういいや」とばかりに大量に家の中のモノを処分してしまうことでしょう。私が千の風になった後で、だれかに家の中を片付けられてしまうのは気持ちが悪いですからね。
さて、子供の頃からすぐに「かぶれ」ます。うるしの木などに触れて痒くなるのは勿論のこと、誰かがやっていること、言っていることに感化され、すぐにサル真似をしようとするのです。本当に恥ずかしい。オマエは自分というものが無いのか? はい、そのとおりです。
随分と前のことですが、或る時期、名の通ったコンサルタントの方々と頻繁に接する機会があって、その頃はしきりに彼らのサル真似をしようとしていたのです。この方々が読んでいるという本を買って、積読に勤しんだり、「これが今の最先端です」みたいなものを紹介されるとノコノコとそこに出掛けて行ったりと、今、思い起こすとあんまり自分が滑稽で、哀れで、涙がこぼれます。
とは言っても、その頃に読んで、辛うじて「分かった」「面白い」と思った本があって、それをもう一度読み返したいと思ったりするのです。それはフランスの人口学者で、世界的に高名なエマニュエル・トッドさんの代表作である「帝国以後」。
出版されたのは2002年で、世界は「アメリカ(帝国)を持て余しながらも、そのことで様々なバランスが取れている」といった内容だったと思います。今、読み返すと全然違う内容だったりするかも知れませんけどね。これを読んだ当時は、その切り口が余りに新鮮で「そうか、世界について、こういう解釈の仕方もあるのだな」と衝撃を受けました。
そして、人口統計データ(出生率、死亡率など)を揺らがない真実として、現在だけでなく、未来までを予見していく方法論のスマートさ、納得性の高さにただただ舌を巻いたものです。そして、この本が世に出てからほぼ四半世紀が経過して、その未来予測が大筋で当たっている様に思えるのです。
今一度読み返したときに、私は何を思うのでしょうね。きっと、本の中身以上に、あの頃の「かぶれ」ていたサルの自分をそこに見出して、へへへと笑ってしまう気がします。でもね、本当に面白い本なんですよ、これ。
そうそう、たまにNHKのドキュメンタリー番組などで、トッドさんが登場して、世界情勢に関してコメントを話す姿を目にすることがあって、その時は何だか昔からよく知っている「身内」がTVに出てる様な気がして、うれしくなったりするのです。「かぶれ」たことにも、何かしらの意味があったのかも知れませんね。
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昼ご飯にヤキソバを作ろうとしたのですが、「長ネギ」が冷蔵庫にありませんでした。タマネギでもよいのですが、しっかりと火が通らないと「生」感が出てしまい、悪目立ちしてしまうのです。かと言ってフライパンの上でしっかり熱を加えようとすると、焦げてしまいます。
それで、適当な大きさに切ったタマネギをお皿に入れて、電子レンジで2分程加熱してからフライパンで調理したのですが、これだと「生」感がなくおいしく食べることができました。電子レンジは奥深いなぁ。