滅多にないことですが「マウス」が壊れました。使っていないマウスが大量にあるので、無問題なのですが、「形あるものは必ず壊れる」を改めて感じました。食器は頻繁に割れてしまう、靴下には穴があく、家電は忘れた頃に故障する。生き物だって「形あるもの」なので、この理から逃れることはできず、いつかは壊れてしまうんだなぁと妙に納得をしました。
至るところに、AIが作った画像や動画が溢れ始めました。今は一見して「生成AIが作ったのね」と分かりますが、きっとしばらくすると、その道の専門家以外では分からない品質になることでしょう。けれど、私、このAIが作った画像や動画って、キライじゃないんですよね。
なんかツルっとしていて、いかにも作りモノって感じが、カメラで撮影したホンモノよりも見ていて落ち着くんですよ。どんなに品質が向上しても、この妙な味わいは是非残してもらいたいものです。そういう人って、意外と多いんじゃないかな。ちなみに今日のエントリのサムネイル画像は生成AIに作ってもらったものなのですが、何か「いい感じ」でしょ。
こういう状況になって、「AIじゃ出せない味」みたいなものは、結局は好みの問題であって、優劣ではないことが分りました。私の様に「AIにしか出せない味」が好き!という人もいるのです。こういう表現、芸術といった領域だけでなく、これからどんどんと人間の仕事の多くが、社会を動かす仕組みや仕掛けが、AIに置き換わっていくんでしょうね。そうそう、既にNHKさんなんか「AIによる自動音声」が普通にニュースを読み上げていますものね。
それで、今日のエントリで私が書いているのは「世の中の仕組みの大半がまるっとAIが支える様になるのは、僅か数年後のこと」なんだろうなということなのです。AIは誰にも気付かれず、自らも主張もせず、休みもせず、不平も言わず、しかも自ら改善や進化を続けていくことでしょう。
万が一、それが使えなくなる、停止してしまったらどうするのか?って。今だって、電気が止まったり、機械が故障をしたりしたら、誰も何の手も打てないのですから、同じことなんですよ。だから、そんなことを心配しても意味がありません。
いつの時代だって、テクノロジが進化する度に、ニンゲンはそれを与件として、どう生きるのかを試されてきたんでしょうね。今、私たちは大きな時代の節目に立ち会っているのですが、できたら、これがもう少し私の若い頃だったらよかったのにと思うのです。そうしたら、どんな仕事をしていても、その変革の真っ只中でジタバタできたかも知れませんからね。
63歳の私は、その風景をただ眺めるだけ。もしくは末端の末端で、AIが動かす世界に繋がって、僅かな禄を食むことしかできないのでしょう。まぁ、それはそれで気楽でいいけどね。
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私が住む街、再びまったく雨が降らない日が続いています。TVニュースなどを見ていると、「急な天候変化」で短時間に大雨に見舞われるといった映像が頻繁に流されますが、私が住む東京郊外の街では、もう10日以上、一滴の雨も降らないのです。しかも、この暑さ。いつまでこんな天気が続くんでしょうね。